夜と針

最近読んだ本、漫画、アートについて感想をつづります。

日本奥地紀行

 日本奥地紀行      イザベラ・バード

 

 以前から読みたいと思っていたので、図書館で旅のコーナーに置かれていたのを見つけたときは、嬉しかった。

 英国の中年女性が一人で、日本の奥地を旅する話なのだが、なにせ時代が明治11年なのだ。鎖国が解かれてまだ間もないころだし、外国の女性を見るのなんか初めてという日本人も多かったろう。同じ日本なのに、時代が違うだけで風俗など全く違っているのに、割と民族性は変わってないような気がする。

 この時代の日本の風景は、描写を読んでも美しかったことを想像させる。現代みたいに、プラスチックもないし、派手な看板もなく、人と自然は調和している。森を抜けて現れる小さく区切られた田んぼに張られた水。人家。着物を着た人々。憧憬をもって見るのは簡単だが、実際にはかなり蚤や蚊にたかられるなど、現実は甘くなかったようだ。

 

 もちろん明治初期の外国人からみた日本の様子は、とても興味深いのだけど、このイザベラさん、英国人独特の頑固さなのか、おまえマゾだろう!といいたくなるくらい悪路で過酷であればあるほどじつは嬉しいようなのだ。旅の途中では、同じ外国人にあいたくないとか、わざわざ人がいかない道をいったり、冒険して新しいものをみたいというよりは、厭世的なものを感じるくらいだ。快適な西洋風の家に泊まった時はこのうえなく安堵するのに、そこに落ち着いていられない。なんというか、近代社会がこのひとにはむずがゆいのかも。

 

 あと、アイヌの人々をたずねて、文化や風俗を記していたのも興味深かった。イザベラさんがアイヌの人を、西洋的な顔立ちで、画家が描きたくなるほど魅力のある風貌と描写していたけど、たしかにあつぼったい瞼で、堂々とした長い髭など、ダヴィンチの自画像のような美しさがある。女性は入れ墨をしていて、呪術的な力強さだ。

 むずかしいけれど、この美しい民族の文化が少しでも未来に継承されて欲しいと思う。でも残そうとする時点で、それは滅びかかっているのだよな・・・。しかし民族が自分の民族衣装を身にまとうと、なんとどうどうとして美しいのだろう。アイヌの人が力強い刺繍を施された衣装を着ると、何と気高いことか。

 

 

スニーキーレッド

  スニーキーレッド    たなと

 

 電子書籍で買ったら、面白くて何度も読み返しました。何度もの読み返しに堪える作品だし、読み返さないとわからない部分も多くて、いろいろ考えを巡らせばするほど面白い、いい作品でした。

 二巻で完結しているのですが、最初と最後では、ハルの印象がこれでもかというぐらい違います。暴力でつながるBLというのがざっくりしたくくりです。 

 最初の一、二話読んだ感じだと、ハルがフリーターのミサキに因縁をつけて、とにかく暴力的でキレやすく、見た目も金髪で唇の下にもピアスなど、好きになれないキャラクター、が第一印象。

 

 一方ミサキは、見た目ふつうですが、ハルに殴られたことで、痛みを快感にかんじてしまって、しかも殴るハルの狂気を孕んだ眼付に惚れてしまう。色々このミサキにはツッコミどころがいっぱいなのですが、私がいままで読んできた小説にも漫画にもこんなによくわからない主人公はいなかったかもしれない・・・。

 未必の人っていうのか、無意識下で色々動くので、本人自体が自分がなにを意味してやっているのかわかってないし、あとで自分の行動の意味にきづいて反省したりするけど、やったあとなので遅いっていう・・・。読者にも心情を語るし、セリフや考えも示されるのだけど、素直そうにみえて、無意識にやらかすので、読者にもこのミサキが何を考えてこの行動しているのかわからず、あとでミサキが反省するとき、あ、こういう意味ってわかるという、それ以外はすごくにおわされるし、推測をさせらるという、読者すら引きずり回すエライ人物造形になってます。

 ハルは勘がいいし、言語化する能力もあるので、なんなら当人のミサキよりはやくミサキの行動の意味を理解してしまう。ミサキがマゾで、わざわざ殴られにきて、快感を覚えてしまっていることも、あっさり暴くし、ハルがミサキ以外の人間に暴力をふるったことに嫉妬して、わざと別のヤンキーに殴らせるという荒業も、わざとやっただろうと、ミサキを問い詰めたりします。

 話が進むにつれ、暴力的な印象しかなかったハルもどんどん印象がかわってきます。おもちゃにしていたミサキが、年上だとわかった時点でさんづけで呼ぶし、食事をごちそうになったらきちんと礼をいったり、実は高学歴とか、オセロの黒が白にひっくりかえっていくよう。しかもこの子、暴力的なのに真面目なんだな。まったく自分に甘くない。それが後々自分の首をしめていくのですが。 

 

 この話のおもしろさは、一話ごとに二人の関係性が変わっていくこと。最初ハルはミサキをサンドバッグ代わりに殴つておもちゃにしているし、ミサキは殴られ快感を覚えたことで、マゾなことを自覚します。ハルはミサキがマゾなことにきづいて、暴力的に犯すようになりますが、だんだん情がわいてきてミサキを痛めつけることができなくなってしまい、逢うのを止めてしまいます。 

 しかし、ミサキがバイトする店で、偶然同僚と笑顔で話すミサキを見つけ、嫉妬する自分に気づきます。暴力でしかつながっていないミサキが自分に笑顔をみせるはずもないのに、自分のおもちゃのはずが、何他人と笑ってやがるんだという・・・。このあたりからハルがどんどんかわいく見えてくる!ハルはミサキの家を訪れ、食事をごちそうになって礼をいって帰る、という行為のなかでミサキが恋人としてアリなのか自分の気持ちを確かめにいきます。 

 ミサキはハルの暴力に快感を覚えているので、ハルが精神的なつながりを求めてきたことに戸惑いますが、受け入れます。二人は関係を深めていきますが、やっぱりいちばんのカタルシスは二巻で就職で追い詰められたハルが、もうミサキを殴れないとぶちまけます。

 ハルはミサキがハルから受ける暴力を快感とすることを知っているので、これはもはや別れを覚悟しての言葉でしょう。対してミサキは間髪いれずに、そのほうがお互いのためにいいと思う!と同意し、ハルのことがすきだし、必要だと伝えます。(え、いまさら?)

 ハルはミサキに精神的に愛されていることを初めて実感して、自分を許します。このあたりはハッとするぐらいハルの気持ちが伝わってきて、感動的。

そのあと、いろいろミサキに甘えるハルがこれでもかというくらいの可愛さ!最初あんなに暴力的で、いやな印象しかなかったハルが読み手のこちらまで180度見方が変わるというたまらなさ!

 

 ハルはミサキにあったことで、人生変わったなと思います。一方最後まで残るミサキの不思議さ。仲のいい家族で育ってトラウマもなく、普通そうにみえるのに、最終的にはハルすら掌でころがすエライひと。しかも本人自覚がないっていう・・・。ハルはミサキと出会って、いろいろ芯の部分から変わったけど、なんかミサキは変わっていない。もちろんマゾだということがハルとの出会いでわかったけど、精神的ななにかがドラスティックに変化した、ということはないんじゃなかろうか。    

 ハルが壊れる・・・というときに初めてハルのことを本気で考えたくらいで、あとはハルのこと考えてるふりして実は自分のことしか考えてない・・・、のに包容力はあるという訳のわからなさ。読めば読むほど、このミサキという人物は不思議でした。

 

 

デビルズライン

 デビルズライン   花田陵  1~11巻

 

電子書籍で無料版を読んだら、あまりのおもしろさにはまり、全巻レンタルしてしまいました・・・。とにかく面白くなる要素がてんこ盛りです。バトルアクション、ホラーサスペンス、あとラブがメインでがっつり描かれていて、バランスがいいです。

 

 ネタとしては吸血鬼ものだし、導入部分も見たことある展開なのですが、何というか青年誌でバトルありなのにここまで恋愛メインを持ってくるのが新鮮。

 あと、作者がここでこれを見せたい!というのがとても伝わる見せ方をしています。ここぞというとき、盛り上がった所で時間をとめたシーンの見せ方が上手い!ドキドキしながら一瞬読み手も息を止めてしまう作りで、静止画には見入ってしまいます。

なんというか、主人公と息遣いまで一緒になってしまって、作品世界に引き込まれていくような錯覚を覚えました。

 

 この作品を読み解くキーポイントは、衝動。主人公で吸血鬼の安斎は、事件の関係者のつかさに(以前から張り込みで一方的には見ていたけど)言葉を交わしたその日にディープキス。つかさが忘れられず、一方的に見張りベランダから侵入、ひざだっこ再び抑えきれず舌入れるキス。つきあう?とか好きだとかガンガンせめていきます。ここで読み手がすごく惹かれるのは、安斎の頭が全然行動についていってないこと。

 頭では鬼と人は一緒にいるべきじゃないのが信条で、頭では、やめろやめろと思っているのに、つかさを目にすると体と心が先走っていくのが、読み手にとって堪りません。好意や行動(キス、つかさの家で鍋、プレゼントなど。)が先行していき、せつなさ、ドキドキで苦しいほど。

 

 あと気持ちを言葉で確認しあってないときに、つかさは安斎が撃たれたことに動転しつつも、再び撃たれた時安斎をかばって前に出て怪我をし、安斎は最愛のひとが傷つけられた恐怖と怒りで、瞬間相手を殺す!と変異しました。頭で整理できていない状態なのに、心と体はお互い相手にために自らの命を犠牲にしてもいいと、この早い段階で互いが運命の相手だと確信してしまっています。 

 鬼に変異した上、つかさの顔に流れる血を見た安斎は、自我を失いそうになり、思わずつかさを襲いそうになります。ここでつかさが、安斎に大丈夫かと手を差し伸べるくだりは、つかさの包容力のおおきさにはっとさせられました。安斎は、つかさが無事なこと、襲いかけた鬼の自分を恥ずかしさ、鬼であることの悲しさが入り混じります。

 この段階ですでに、安斎の怒りと、つかさのゆるしが出てきます。巻が進むにつれこのワードは安斎の変異をコントロールする上で重要な条件となります。

 

 とにかくこの安斎とつかさのカップルは、読んでいてほのぼのするんですよね。恋愛自体もバトル要素があると思うんですが、この二人はお互いを大事に思いやっていて嘘や、虚勢、見栄をはらない自然体なので気持ちがいいというか・・・。

 一番ひっくり返ったのが、10巻で安斎とつかさが初めてしようか・・、というとき話し合う場面で、安斎がつかさに

 出血するぐらいなら痛いんじゃないのか と心配してつかさの返しもすごすぎた!

それは仕方がない  という割り切り。

初めてだったら痛いんじゃないのか、と心配する安斎の気遣い、やさしさもすごいし、処女を全く武器にしないつかさの割り切りと器の大きさ!実際は色々思惑やはずかしさで、言語化してお互いに話し合えないと思うのですが、この二人最高だなあ、と思った会話でした。

 

 それからこの漫画、魅力的なキャラがどんどん出てきます。一番やられたのがヨハネス。銀髪ロングの片目がブルーアイ。『ヨルムンガンド』のココ以来、この見た目だけで半分落ちた・・・。

 

 ヨハネスは、鬼の研究、収容する地下施設から抜け出した、安斎の同期です。ファッションがぶかぶかのTシャツに、スゥエットパンツで最初は裸足の病棟施設ルック。なんていうか、かごから抜け出した白い鳥、みたいなイメージを持ちました。生まれた時から人体実験を強いられ、生き延びたヨハネスは状況判断、自己コントロールにたけ、鬼としての自分を理解しています。安斎が陽りの子供なら、ヨハネスは地下から出られなかった闇の子供と、対照的に描かれます。

 

 ただこの人、好きなんだけどどうにも連載中死にそうな気がして仕方がない。実験施設から抜け出したから、二度と施設に戻るのはいやだろうし、生まれたときから人に人でない扱いをされたせいで、人は嫌いではないけど、信用していない。自分の中の鬼をコントロールするため、平常心、状況判断を身に着けたおかげで、衝動も制御してしまう。これでは恋もむずかしいだろうな、と思いました。一番かなしいのが、家族やともだちといったワードがでるたび、空を見上げることです。それらの単語はヨハネスを地上に縛る見えない鎖です。二度と縛られたくない彼は、小さい時からあこがれた空にかえりたそうにみえてしまう・・・。生きるにしろ、死ぬにしろ、ヨハネスにとっての幸せが迎えられますように。

 

 あと、安斎の父親、安斎環もでてきますが、60歳以上のはずなのに若い!

これって画力の問題ではなく、わざとこう描いてる。ということは、血を飲んでいる環は不老フラグ・・・。鬼は人の血飲んだら、傷が治るばかりか、年とらないんじゃ。これ、鬼は今は数が少ないから人から狩られているけど、団結して人を狩って食料としたらえらいことになるのでは・・・。この漫画、だれが味方か敵かわかりずらいし、物語の着地点がどこになるのかまだわかりません。種族や性別のボーダーを超えるんじゃなくて、理解しあおうよ、向かい合おうという面白さ、困難さがこの漫画をどこに導くのか楽しみです。

 

 

 

夜はともだち

 『夜はともだち』   井戸ぎほう

 

 一番初めにこの漫画持ってくるのは、ちょっと勇気がいるけど、感想を書いてブログで記録しておきたい、と思うきっかけとなったお話です。

私は昔から混乱すると、文章化して気持ちを明らかにして理解したいという欲求があります。この漫画は、その意味において、私をものすごく混乱させ、お話の世界に引きずりこんでくれました。 

 内容は、BLで、SMというかなりきわどい作品です。まずカラーが独特で不安を増幅するような色使い、絵柄はちょっと手塚治虫が入ってるような、それでいて古さを感じさせないタッチで、男の人の体のラインとかドキッとさせられます。

 何度か読み返して気づかされたのが、これは松本大洋の『鉄コン筋クリート』のオマージュなんじゃないかということ。主人公のひとり、飛田の下の名前が白ではっとしたけど、本音しか言わない白はシロと、もう一人の主人公真澄は暴力という点でクロとつながっています。

  飛田君のことが好きなのに、その気持ちを飛田君本人にへし折られつづけるそのせつなさ!飛田君が真澄の無意識下の暴力をひきずりだした、その怖さがこの作品の最大の魅力かもしれません。

 

 Sの仮面をかぶる真澄がMの飛田君をいたぶるのが表面の構造ですが、真澄の恋情を無自覚にふみにじる飛田君という二重構造になっているのが、このお話の秀逸な点です。プレイ中に飛田君はそれをやってしまって、真澄は衝動的に飛田君の頭を床に打ち付けます。これは明らかにプレイとは一線を画した直接的な暴力で、注目すべきは飛田君が、真澄の無意識下から衝動的な暴力を引きずりだした点です。

 やさしいはずの真澄から引きずりだされた暴力を、真澄自身は直視できません。好きな人にふるってしまった暴力は真澄の魂を損ない、汚すものだからです。

 

 後半、ゆるやかに壊れた真澄は、飛田君を監禁します。心で繋げないなら、物理的にといったところでしょうか。監禁中、壊れた真澄の静かなやさしさは、このあとふるわれる暴力とあいまってせつないほど。精神が壊れてはじめて真澄は本音をはなします。

 暴力という、引きずりだしてはいけないものを引き出した飛田君ですが、本音をいえない生き方をしてきた真澄から初めて恋の本音も引き出しました。

 

 一方、他人と合わせず、本音でしか生きてこなかった飛田君も、最初から一貫して示され続けた真澄のやさしさがじわりと効いてきます。これ以上の暴力、否定される恋情から飛田君との関係を真澄は断ち切りました。そこではじめて、飛田君はプレイメイトとしての真澄ではなく、真澄自身に恋したことを悟って逢いに行くのですが、ここがまた泣かせる展開で鮮やかとしかいいようがありません。

 趣味も性癖も違うけれど、飛田君は相手に合わせることで相手が喜ぶことを知ったし、真澄は気持ちが通じ合ったおかげで、自分の恋心を否定されないので、暴力のスイッチも入りません。SMは、SがMを殺すのが究極の愛なのかと考えてみたけれど、それだと残されたSは報われない。

生きているのを幸せと定義するなら、自分の気持ちをすこし殺しても、相手の喜ぶことをしてあげるのが、自分の幸せとなる、そんな結末、素晴らしすぎました。